昭和41年12月25日 朝の御理解
                              中村良一


信心の道が分かるという事は、そのまま、真の道が分かるという事。信心の道を迷わずに、しかも、疑わずに歩いていくという事が、信心生活という事です。信心はしておるけれども、信心の道を知らんと同じ。信心の道を教えて頂いても、真の道を踏んでいかなければ、それは、信心の無い者も同じことだ。真の道も、信心の道も知らぬ者の、知らぬ人の哀れさと仰っておられますけれども、やはり、哀れなことである。信心の道を覚えさせて貰うて初めて、私共の幸せがあるのですから、道を、私共が覚え込む、道を行じていかなければならんと思う。
昨夜、伊万里のご信者さん方が、自動車四台に分乗して、お礼に出て見えられました。竹内先生を先頭にして。その中に、一人、初めて、昨夜ご神縁を頂いたという方が、お参りをしてきておった。本当に、まぁっひとつの難儀な問題があって、その難儀の中から、おかげを受けたいと言うので、お導きを受けて、初めて参ってきておる。これからは、信心の道を進めて行きたい。信心を分らせて頂きたい。為には、どういう心で、信心を進めたならば宜しいかという事を、お伺いしたのに対して、もう本当に簡潔である。教えを聞くことと。もう、分りきったことなんですよね。教えを聞くこと。
今まで、それこそ、天地の中に、こういう、いわゆる、真の道があるという事も知らず、ね。生活してきておった者が、その真の道を、信心の道によって教えて貰う。だから、なるほど、全然違うておった。間違うておった。そこに、気付かせていただいて、そこから、真の道を歩かせていただこうと。為には、やはり、教えを頂かなければ分らん。教えを聞くことだと、ね。勿論、それは、知るなら、その教えを行ずる事という事になるでしょう。聞くことによって、私共が、分らして頂くことは、どういう事かというと、神様のお働きというものが、様々な形に、私共の周囲に起こってくる、現れてくる。その神様の働きを、私共が、無条件に、こう頂くというのではなくて、私共の場合、そこんところをです、ある場合は、お礼を申し上げて受けていく。ある場合は、詫びて詫びて、詫び抜いて、そこを受けていく。ある場合は、そこを願いすがって受けていく。そこの所に、私が、今日、おかげを受けておるという事を、先ず分らせて貰うという事と同時に、私自身というものを、いよいよ、深く分らせて頂くという事。なんでもない事の様であるけれども、私、今日、目が覚めて、しかも、洗顔、それから家内が、着物を着せる、時々手伝いをしてくれるのですけれども、後ろを、ずーっとこう、羽織をこう、かけてくれた途端に、あるでしょうかね、もう、今日、私があるという事がですね、何か、私にこう、肩に、こう羽織を掛けると同時にですね、何か上から、がたっとこう、一遍にその、何かが落ちてですね。もう、私が、つぶれたような感じです。いわば、お供えが首の前に落ちたような感じです。まぁ、もおう不思議なその、めいぎょうのされないその感じなんですね。ところが、そして私は、つぶれてもいなければ、首も飛んでいないという事がです。もう大変なことだ、大変なおかげ頂いておるということなんです。
皆さんとても、今日、こうやってあるという事はですね。もう、どのくらいな神様のお働きを頂いておるか分らん。どのくらい、私共が、恐らく、お恵みの中に、おかげを蒙っておるか分らない。それも、私のようなものがと、もう、私のようなものが、信心が無かったら、この世になんかある私じゃなかったという事なんです。もう、何時の昔、つぶれて0おっただろう。何時の昔、首が飛んでおっただろう。ね。それが今日、こうあって、羽織袴着けて、今から御神前に向おうとしておる私が、ここにあるという事はです、有難い。有難かった。ね。同時に、相済まなかった。私の様な者が、今日、ここにあるという事がです。私の様な者がということなんです。
ここで、皆さんが御理解を受けられますと、ね。その成り行きという事を大事に、ね。しかもその、成り行きとの対決という事においてです。色々とあった、成り行きと、私共が、日々対決していくのです。しかもその、成り行きそのものがね、神様のお姿であり、神様のお声であり、神様の働きなのだと。ね。その神様の働きを、如何に、私共が、実意丁寧に受けていくかと。言い訳しながら受けていくか。不平不足で受けていくか。ね。
昨夜、ちょうど十二時過ぎまで、皆さん、前の日の、ここの謝恩祭を知っていなかったんでしょう。夕べは、こんな訳でしたけど、と言うて、まぁ、お話させてもらって、まぁ、お茶を頂かせてもらいながら、色々とお話してです、もう十二時に回りましたから、あの、これで皆さん、御無礼いたしましょうという、最後に今日は、あの私は、クリスマスのことは良く分かりませんけども、それで何か、昨日は、どこでも、色んなパーティの様な事があってるんですね。ですから、最後に、椛目の歌を、皆さんで歌うてから帰らせていただきましょうと。それで、竹内先生が音頭を取られて、私は、それをじっと目を瞑って聞かせて頂いておりましたんですけれども、ははぁ、この歌の素晴らしいことに、もう本当に、もう本当に、一つ一つに、その、歌の節は、私が作詞をしてから、その作曲したわけではないですから、その作詞だけは、私が、おかげでさせて頂いたんです。もうあれは、何時の日か、(  ?  )で、前の晩の御理解で、一言一言が有難い。もう本当に、ちょうど、私は、それを、それまで出来るとこの事を知りませんけれども、あの、キリスト教では、賛美歌と、こういう事を申しますですね。神を称える歌というのでしょうか。もう、あれは、本当に、私はその、夕べばかりはですね、例えばあの、なんですか、あの炭坑節でその、歌うのですから、どっちかと言えば、この陽気ですね。ちったこの、軽々しい感じが致しますよね、雰囲気が。ところがね、もう私は、昨日はもう、それが何、また皆さんが、もう皆が歌われるですね。皆がその、一番から、十一番まで、もう覚えておられるわけです。で、それを、本当に有難い御理解、いわゆる、賛美歌を歌うような厳粛さで歌われるんです。私は、それを聞かせていただきながら、とても、炭坑節とは思われない感じの中にですね、おかげを受けたんですけれども。その、一つ一つの中にです、ね。あぁ、情けない情けないと思うておったのは、迷いがあったと言ったようなところがありますですね。ね。私どもは、日々の生活の中にです。本当に、難儀と感じておる事はもう、情けないことですよ。どうしてと思うておる時には、もう難儀を感じておる時なんですよ。ね。そういう、それはみんな、私共が、肉眼をおいて、心眼を開かないから、迷うた見方、仕方をしておるから、情けないのだ、難儀に感じるのだという事。ね。本当に自分の心が、本当に開けとる。いわゆる、心の目をもって見るならば、心眼をもってするならば、みんなが、神様のお働きであるということ。その神様のお働きがです、ね。本当に、お礼を申し上げても、御礼を申し上げても足りんという頂き方で受けられる時とです、ね。分れば分るほど、今日の、今朝の私の実感なんですけれども、ね。今日、私が、ここにあるという事ですらがです。実は不思議でたまらん。今日まで、お許しを頂いておるという事が。私のような実意の無い、ね。言うなら、浅ましい私を、今日まで、お許しを頂いておるということが。もう、とうの昔に、つぶれておっても仕方のない私がです。この首が飛んでおっても仕方のない私が、今日、おかげを受けて、今日、私があるという事がです。有難いということと同時に、そのことの、心からのお詫びがなされて、おかげを頂いておるということ。ね。
こら、神様のご都合であると分っておりながらも、やはり、痛いことは痛い、苦しいことは苦しいのですからです。場合によっては、そこの所を、もう本当に、すがってすがって、すがり抜かせて頂いて、そのことを受けていくという事です。ね。そこに、私は、力を受けていく、お徳を受けていく道はある。信心の道とは、真の道とは、お徳を受けていく道なんです。おかげ受けていく道じゃないと。ね。信心の道も真の道も知らぬ人の哀れさと。その、私共が、哀れな氏子であってはならないと。いわゆる、有難い私である、ね。相済まんという事を気付かせていただく私である。ね。すがってすがって、すがり抜かせて頂いて、普通のことの道を行じさせて頂こうと願わせていただくところの氏子である。信心の道とは、おかげを頂く道のように、みんなが思うておる。なるほど、おかげも下さる。けれども、それは信心の道を教えてやりたい、真の道を分からせてやりたいという、神様の思いが、そうしたおかげに表れてくるのでございますから、ね。おかげだけでは、いわば、哀れな人であり、氏子である事を分からせて貰わなければいけません。
そのために、その哀れな氏子からです、ね。有難い、勿体ない私共にならせていただくために、やはり、教えを聞くこと以外にはないと。信心は、信心の道を分からせてもらう。お徳を受ける道を分からせてもらうという事は、ね。教えを頂かなければいけません。もう、この教えは、三年前に頂いておった。この前、この事は知っておった。そんなもんじゃないて、教えと言うものは。ね。その証拠には、一つも、お徳を受けていく道に出会わないじゃないかと。ね。
喜びの世界、歓喜の世界、ね。その喜びの世界、歓喜の世界に出会える道を教えて貰いながら、私共がです、不平不足を思い、難儀を感じ続けておる様な事ではです。自分は、信心の道を、ね。真の道を教えて貰う、それを行じて貰ったとしては言えないのです。神様のお働きを、そのまま、神様の働きとして、私共の周辺にある一切を、まぁ、受けていくという事によってです、ね。お徳を受けると言うことなんですけれども、ね。その受け方がです、ね。ただここは、合掌して受けてさえいけば良いという。なるほど、合掌して受けていくことではありますけれどもです。その合掌して受けていく内容にです、ね。お礼を申し上げて受けていき、お詫びをさせていただきながら受けていく、ね。お礼を申し上げなければおられない、そのことを分らせて貰い。お詫びをさせてもらわなければおられない私を、よく見極めさせてもらい。それでも、生身を持っておる事でございますから、痛い、痒いが感じれば感ずるでです。やはり、すがらなければおられないと、すがって、いわゆる、受けていくのですから、合掌は合掌ですけれども、ね。ただ、ここのところを受けていくというだけではです、また受けていけれるという事だけでもない。結局、教えを聞かなければならぬ。教えを聞かなければ、私が分からぬ。教えを聞かなければ、受けておるおかげも、おかげをおかげと感じ違う。
信心の道というのは、ね。そのまま、私は、お徳を受けていく道だと思う。ね。おかげを受けていく道ではない。その、おかげを受けていく道という事が、一生続いたって、それは、大したことはない。ね。お徳を受けていく道と分からせて貰う時に、ね。私は、心の目が開けてくる。心の目をもって、見せていただく時にです。ね。本当に、なるほど、苦しいと思うておった、情けないと思うておった事は、迷いである事を分からせて貰う。私共から、そういう一つの迷いの苦悶を祓わせて頂くためにも、私は、教えを聞かなければいけん。ね。
自然との、成り行きとの対決においてです。私どもが、ただの解決だけではなくてから、ね。その問題をよく見、その事を、よく分からせて頂いて、ね。そこから、おのずと、これは、詫びて受けていく事だ。これはすがって受けていくことだと。これはもう、本当に思うてみると、お礼を申し上げて受けていくことだという事を、良く分からせて貰うて、ね。御詫び、御礼、そして、願いというその信心をです。私共が受けていく、その、自然の働きと言うものをです、そのまま、神様のお働きとして、ただ、受けて行くというだけではなくて、その、侘びとか、御礼とかという、それに分類した受け方が出来る時にです。私は、実感的な神様のお心がです、伝わってくるように思うのです。問題は、神様の心を心として、神様の心が、私共の心の中に、その実感として流れてこなければ、真に有難いという心も受けられない、育たないという事ですね。本当に、心から、相すまんという風にはなってこないと思うのです。どうぞ。